2025/02/18
達磨大師は中国の禅宗の祖と言われているインド人のお坊さんです。幼いころから賢くて勉学に優れていることから,その聡明さにあやかって合格祈願の縁起物として親しまれてます。
自宅の机の上に飾っておいても仕方がないので校舎の玄関のところに置いておきました。縁起物ですので。
達磨さんに関して次のような話があります。(たぶん作り話だと思いますけれど)
当時,中国は南北朝に分かれていて,南朝は梁(りょう)という国が治めていました。梁の皇帝は仏教をあつく信仰していたので,インドから来た達磨大師を喜んで迎えます。そして質問をします。
梁の皇帝「私は皇帝になってから,寺を造り,お経を写し,お坊さんを非常に大切にしてきた。どんな功徳(くどく)があるか?」
功徳というのは”仏の恵み,ご利益(ごりやく),よいおこないの報い”のことです。
達磨さんは答えます。
「無功徳」”功徳などいっさい無い”
梁の皇帝「えっっっ?」
このあと,2人のやりとりがしばらく続きますが省略
皇帝は,功徳・自分がおこなった善行の報い・見返りを求めて仏教を大切にした。純粋な気持ちで行動していないからダメだ,ということらしいです。
このお話を,中学生のころに何かの本で読みましたが,当時は納得がいきませんでした。
けれども,今は納得がいきます,わかります,痛いほどに。
公立入試の日が近づいています。ここに書くまでもないことですが,塾生全員が合格してほしい。合格を目指して生徒は通ってくれているわけですし,私どもも常にそれを念頭において授業をしています。
全員合格という”功徳”を求めて,塾のすべての業務が行われています。
ただ,”功徳”を求める心を忘れるときがあります。
それは生徒から質問されたとき。どうしたらこの子(質問してきた生徒)にイメージや感覚が伝わるだろう,どういう言い方をすればいいか,どの順番で話せばいいか,どんな図や絵を書いたらいいか,絶対にわかってもらいたい,と必死になって考えているとき。”功徳”を求める心よりも,この子に対して私ができることの最大限をやろうという心の方が優先されていたと後になって気づくことがあります。
”功徳”を求めて行動を起こし,それに没頭して功徳を忘れ,そしてその先に本物の功徳がやってくるのでは?
そんなことを考えながら達磨さんを飾りました。
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